大西伸明の作品について あるいは「世界をなぞる行為が止まる」までの待期

三脇 康生 |Yasuo Miwaki

十年以上前、関西で芸大の非常勤をいくつかこなしていた時に、私は、「テクニックの大西」という呼称で、「こいつはなかなか頑固な若者だ」と大西を紹介された記憶がある。その時に、エングレーヴィングという難しい技法で細かな有機的模様が雁皮紙に反復された大西の作品を見せてもらった記憶がある。

見た瞬間、私には「反復」というキーワードが浮かびはしたが、画面を「構成」する意地汚さを拒絶する清潔感を大西の頑固さとして感じたのみだった。しかしこの「反復」はどこに着地するのか、そう思い不安にもなった。このひとつの画面内の「反復」を許容するのが、版画というメチェの特性である複数性(マルチプル性)が包含している「工芸性」であること。それを大西は白日の下にさらしていたとも言える。自分の表現の載る土俵を明らかにする、そのような心意気はあったに違いない。しかしそんな気概を大西の初期の作品から読み取ることはできても、それ以降の展開を予想することは出来なかった。

しばらくすると大西は、このような版画作品からビーズを用いた作品を作っていく。私は、大変驚き、何を大西がしたいのか考えることになった。その頃彼の展覧会に文を寄せることになった。大西が画面を構成することなく、画面において「反復」させる「要素」と、大西に表現行為を行うように動機付けてくれる「フェティッシュ」な対象物という二つの区分があるとして、大西はその二つの区分の間で仕事をしているのではないかと私はこの時に書いた。有機的な形態からさらに円錐などの幾何学模様に切り詰められた「要素」が丹念に「反復」された版画を作っていた大西の画面が、なぜ、花びらを内に含みビーズ面を表に突き出した樹脂版の作品に変化したのか。大西が、版画がメチエとして持っている行儀の良さを捨ててつかみ取ろうとした質、それが花という「フェティッシュ」ではなかったか。しかしながら注意が必要である。なぜならば、その「フェティッシュ」の見た目は、ビーズで裁断されて、すでに「差異」を伴って「反復」され「要素」化されている。

私は初めて大西についての文章を書いたとき、「要素」と「フェティッシュ」の間を取り出そうとしている、と書いた。しかし本当の大西の意図はそこにはなかったのではないか。このような疑問を持つのは、その後の大西の作品が、「間を取り出す」という意図への攻撃とさえ取れるような展開を示すからである。「要素」と「フェティッシュ」の間を取り出す、切り出す為の主体性を基軸に制作することとは無縁であることが大西の作品によって示されるからである。

一つ一つの作品は、樹脂でかたどられた形態に「本物」そっくりに彩色がなされる。コーラの瓶、たこ焼き器、お椀、ゴウヤ、卵、磁石、釘、蟹の甲羅、肉、電灯、写真、テトラポット、木々、蝶、ペンチ、目玉焼き、赤鉛筆、唐辛子、小豆、セロテープ・・・・・・。そしてこれらの小物の端の方は彩色が止められ透明になっていて辛うじて本物でないことが分かる仕掛けがある。しかし実はそんな仕掛けも大西には大した意味はなかったのではないだろうか。そういう「落ち」をつけておかないと本物そっくりに作ることが目標であると誤解されることを嫌っただけではないだろうか。実際、大西は、大型の作品が多い近作において、本物のすべての部分を型取るのではなく、一部を型取り始めている。いったい、それが何を意味しているのだろうか。

もし私が書いたように「要素」と「フェティッシュ」の間に大西が出入りしていたのなら、その後の展開で彼はその二項の間に入り込む自分の立ち位置を疑い始めたような気がする。そもそも誰が二項の間に易々と入り込むことを許可されているだろうか。「フェティッシュ」を「要素」へと変える為に「反復」を意図することにすら大西は意地汚さを感じたかもしれない。それも美術の一手法に過ぎないと感じたのかもしれない。なぜならば、「反復」は大西とは無関係に世界に存在しているからである。たとえば今日の朝刊の最後の夏を見ていたら、ロストロポービッチ氏死去、植木等さんお別れの会、死刑3人執行、54例目の脳死移植終了と種々の様相にある死が連続して、反復して目に飛び込んできた。大西について書き始めていた私は、このページが「フェティッシュ」化してしまって、捨てられなくなったが、普段なら電車のゴミ箱に捨てていただろう。この際、「フェティッシュ」化してしまうとは自分の死がそこに書かれているような気がするということである。このように、もちろん種々の「差異」も伴うのだが、世界は「反復」で出来上がっている。それに比べて、ほとんど「ずぶの反復」と化した(つまりは緊張のない人工的な「反復」と化した)現代美術の作品にかろうじての「差異」を持ち込むという意地汚い仕事を大西は引き受けなかった。それよりも「世界は『反復』で出来上がっている、そこには種々の『差異』も伴う」ということ、このこと自体を作品化しようと大西は考えているのだと私には思える。

突然に再度作られたように見える、模様の多い版画作品も、ガーゼに刷られて組み立てられれば、女性の下着に変化する。そこには「要素」と「フェティッシュ」の間を切り出そうとする大西の主体性は清え失せ、ひたすら「反復」して用いられるだろう既製品の下絵としての版画作品が成立している。そう、今の大西はこの意味で下着の下絵なら辛うじて作れるのだ。「反復」は自分が主体的にさせているのではない。「反復」はそこらあたりでいつも起きているのであり、そのことを作品に導入しようとしている大西自身も、大西の主体性も種々の「反復」の結果に過ぎないのだ。

私は初めて大西に文章を書いたとき、「要素」と「フェティッシュ」の間を、取り出そうとしている、と書いた。しかしそれは、あくまでも美術の技法の問題として書いていた気がする。大西はそれを超えていこうとしている。どのようにしてだろうか。数名の論者が口を揃えて言うように、美術という枠を、制度を壊すことによってだろうか。そうとも言えるだろう。しかし本当のことを言えば、それも超えてしまっている。つまりそのような制度あるいは制度の脱構築には大西はもはや興味が無いように見える。ことは、もっと単純なことなのだろう。「ああこれは自分だ」と大西が言えるような「もの」を作ること。世界の中で生じている「反復」の中に、藻屑のように消える意味では、これは「自分と同じだ、自分のことだ」と思える「もの」を作ることしか大西には問題になっていないように思える。それは「もの」を美術作品化する行為とは違う行為を大西に導入するはずである。樹脂の塗り残しが、ややもすると、美術作品化という匂いが残る行為だったのだとすれば、近作で大西は「もの」を樹脂で部分的になぞる。つまり一部は世界に放置されたままにしている。これは、大西が「自分と同じだ、自分のことだ」と思えたところで「なぞる行為を止める」原理の発明のように私には思える。美術批評家のロザリンド・クラウスの代表作の邦題は『オリジナリティと反復』だが、大西の捉えている「反復」は、もはやクラウスの問題としているような、モダンな美術作品と比べて拡大されたフィールドを持つ代わりにオリジナリティが軽減されてしまうというポストモダン美術の枠内でオリジナリティを浸食するものではない。それは、ごく普通のことであり、そこらで生じていることであり、大西が作品を作りながら熱中している釣りと等価である。おそらく釣った魚は自分であると大西は思うだろう。

しかしこのように書いても、大西が美術からまったく下りてしまっているということではない。釣りに行くように、美術というフィールドにも大西は入ってくるだろう。だが、モダンやポストモダンやその対立の議論の網からは大西はするりと逃げてしまう気がする。なぜなら大西は、「これは自分だ」と驚く為に、ただそのために世界をなぞる行為を止めているからである。いや本当のことを言えば、世界をなぞる行為が止まるのを待っているのである。「止める」と言ってしまえば、また、アートゲームの主体が立ち上がってしまうからである。

 

 

 

 

 


季刊『版画芸術』136号
2007年6月1日刊行
阿部出版株式会社

2026-7-24