極薄の霊 − 大西伸明の仕事 Inframince spirituality − Nobuaki Onishi's works

清水 譲|Minoru Shimizu

Inframince spirituality − Nobuaki Onishi's works

「いくらでも複製できるもの」versus「たった一つのリアルなもの」。より一般的に言えば、「差異化されたシステム内の位置にすぎないもの」「イメージや情報によって記述しつくされるもの」versus「差異化以前のリアルな外部」「イメージや情報に還元されない実在」。大西伸明の芸術は、基本的にこの二元論を前提としつつ、両項の不確かさ、その間に関わっている。

 情報メディア社会とは、メディアのネットワークが生活の隅々にまで達し、現実に先だって情報やイメージがまず世界を形成することを特徴とする。「もの」の実在感は希薄となり、すべてが情報の流動の中へ飲み込まれていく感覚が広まって、「私」や「世界」というかけがえのない存在もまた、システムの中で誰とでも何とでも交換可能な位置にすぎないのではないかという実存的な不安が生じる。結果、メディア社会の全面的な複製可能性/互換性の中で、単数性/単独性をどのように考えるのかという問いが立てられる。

 ポップアート、とりわけウォーホルの芸術はこの問いに対する一つの反応であったと言えよう。周知のように60年代から70年代前半、「リアルな現前」を「代表・代理」するとされてきた「表象」が失墜し、戦後社会は「シミュラークル」の時代に入る。それと同時に、代表・代理関係以外のルートで実在と結びつこうとする欲望も活性化した。「もの」と一対一で対応する物理的痕跡、つまり媒介(=メディア)なしにものと結びつく「インデクス」は、加速度的にメディア化する社会において「現実世界」との確かな絆を保証する記号、のはずであった。

 一回限りの時間に光が感光物質に刻み込んだ痕跡として、写真もまたインデクス記号の一つである。が、複製技術としての写真は、その痕跡を「型」(ネガ)として「一回」をいくらでも反復する。実在を保証する「インデクス」は、そこから単数性を剥奪することで実在を裏切りもするのだ。ウォーホルの写真製版による作品、とりわけ電気椅子や自動車事故のシリーズは、写真のこの両義性 —かけがえのない実存(たった一つの死)とそれを複製し消費する社会の残酷さ— の表現でもあった。単独なもの、かけがえのないもの、それはいまや複製可能で大量生産可能な商品に過ぎない、と。他方、チャック・クロースらのフォトリアリズムは、単独性を複製可能性へとなし崩しにしてみせるポップアートのシニシズムとは真逆の傾向だった、と解釈できよう。いくらでも複製可能な写真イメージを超絶技巧の油絵に、すなわち人の手になる一点限りの作品に変換することによって、それは写真の裏切りを絵画によって救済しているわけだ。

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大西伸明は、個体ごとに異なるはずの骨、事故で凹んだ車体、自然に成長した樹枝、経年変化したテトラポッド・・といったものを型取りし、次いでそれぞれの表面の質感を実物と見紛うばかりにリアルに描き加えることによって複製してきた。それは描画によって実物と見紛うばかりのリアリティを再現する点で、フォトリアリズムの末裔であるとともに、「単独性」と「複製可能性」を相殺するウォーホルの直系でもある。かけがえのない実在の忠実な再現(プラス)、それが型による複製であることの曝露(マイナス)、プラス・マイナス=ゼロ。曝露の形式は、最初は透明化であった。身のまわりの存在物が途中から希薄化し、非在へと消えていくのである。だが、実在と非在、フェイクとリアルのあいだで作品が論じられ続けることに限界を感じた作家は、やがて、透明から並置へと移行する。かけがえのない実在は、全く同じものが隣に並ぶことによって、そのアイデンティティを喪失するわけである。

 さらに近年、大西伸明はもう一つの二元論を重ね合わせて新作を展開している。それは、インデクス記号としての写真に内在する、イメージ(非物質的な映像、画像)versus物質性(インク、樹脂、金属)という二元論である。前者はかけがえのない実在を演出し、後者はその複製可能性を保証する。かけがえのない実在感は、まったく実在しない表層のイメージに依存し、本当に実在する物質のほうは型となってそのかけがえのなさを裏切る。しかし他方で、表層のイメージは、型取りされた表面のリアルな凹凸がなければ実在感を演出できない。単なる「ゼロ」には収まらない、この捩れた関係に、大西の関心は向けられている。

 型取りされた凹凸面(物質)と、表面の質感を描き出す絵の具の層(物質)、この二つの表面に挟まれた境位から実在感(非物質)が由来している。そこで作家は、曝露の方法を並置からさらに移行させた。型取りによって生じた、本来の実在物には存在しない「裏面」を見せ、しかも丹念に磨き上げて鏡面仕上げにしたのである。裏を見せただけならば、リアルと思えた物体は実は張りぼてのフェイクだったという議論に逆戻りしただろう。裏が鏡であることが、このシリーズの要である。鏡面仕上げは、かけがえのない実在が宿る場所としての二つの表面の間 —インターフェイス— を純粋に追いつめる行為なのだ。

 原初の時代から、一般に物質(金属や石や漆)を磨き上げて世界が映り込むようにすることは、それを非物質化する方法の一つである。三種の神器の一つが鏡(金属を磨いた鏡)であることからもわかるように、それは言わば物質をスピリチュアルな次元へ転換する行為といえる。同時にまた、周囲が映り込んでそれ自身が見えなくなるという意味では、物質を透明化する行為でもある。つまり、物質を研磨して全面的な映像性を付与し、それによって透明化することで、見えないけれども存在している=スピリチュアルなものに変換出来るわけである。目の前の物や人がかけがえのない実在感を帯びている状態とは、まさにこのスピリチュアルなものに裏打ちされていることに他ならない。

 しかし、それはなんという極薄の存在であろう。作品の裏をまさにその作品の表に描くことで、虚実二つの裏面に挟まれた仮想面としての画面を表現したヘイスブレヒツの有名な絵画のように、その位置こそは表面と鏡面、すなわち視覚される実在と非在に挟まれた映像の面、認識の面であり、観念的にのみ存在する極薄な面である。かけがえのなさを描き出す絵の具の層は、裏から、全面的に世界の鏡像に貫かれている。われわれの実在感 —大西は意識的に身体をモチーフとしている— は、絵の具と鏡像の間の非物質的な、つまり実在しない極薄の位相から発生し、しかも複製可能、反復可能なのである。とはいえ目下のところ、鏡のシリーズは単独で完結し、並置されない。このシリーズのポイントは複製可能性ではなく、実在感の極薄の由来であるからだ。

2026-6-16